深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義4.「クマソ」は「球磨祖」

1.ふるさとの球磨は「熊襲国」であり「球磨祖国」

 史家の間でも諸説あって議論百出、定説のない話題であるが、改めてふるさとの球磨は「狗奴国(くなこく)」「クマソ国(球磨祖)」であることを人吉球磨地方の皆さんに訴え、熊襲復権、クマソ国サミット開催のロマン実現に向けての話題を提唱したい。

「・ ・ 出身はどこ?」 「熊本県です」 「熊本はどこ?」 「球磨郡です」
「あゝ あの熊襲の子孫か ・ ・!」

 これは、筆者が65年も前に名古屋に出てきたときの先輩との交わした会話であるが、「クマソの子孫か!」という部分がなんとも軽蔑されたように聞こえた。
「熊襲」は野蛮で荒くれの悪者の先入観があった、いや、そう教え込まれていたからである。戦前の歴史教育に洗脳されていた頭では「クマソの子孫で何が悪い?」と思い返すことはできなかった。戦前の歴史教育における記紀神話は皇祖紳信仰心の高揚に対して格好の教材にされていた。王権に従属しようとしない人々は「まつろわぬ民」であり、「悪しき臣民」であり、逆賊とされた。クマソも王権に従わぬ逆賊として、景行天皇(けいこうてんのう)や日本武尊(やまとたけるのみこと)によって征伐され、こんにちの歌舞・演劇でも恰好の逆賊として悪者役に仕立てられている。宮崎県の都城市に伝わる「熊襲踊り」や九州南部の「バラ太鼓踊り」などもクマソ征伐の祝舞いとされていて、今日でも、逆賊の汚名は払拭されていない。そこで本節は、熊襲の名誉を挽回し、復権を期待し、誇り高き熊襲の子孫として誇れるような話である。

 「クマソ」とは、弥生時代の九州南部に本拠地を構え、時の王権に抵抗し独立を守った人々、またはその人たちが居住し、支配した地域名であって、逆賊とは勝者や権力者が勝手につけた呼称である。「クマソ」のことは、1300年前の8世紀初めに編纂された古事記や日本書記の神話に登場する。古事記には「熊曾(くまそ)」と表記され、日本書紀には「熊襲(くまそ)」とあり、筑前国風土記では「球磨囎唹(くまそお)」と表記されている。

 古事記の国生み・島生みの項に、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は筑紫島(つくしのしま)を生んだとある。筑紫島とは九州のことであり、その九州には4つの国が生み足された。その4つの国とは、筑紫国、豊国、肥国、熊曽国である。筑紫国(ちくしこく)は、現在の福岡県のうち東部を除いた部分。豊国(とよのくに)は、現在の福岡県東部および大分県全域。肥国(ひのくに)は、現在の長崎県・佐賀県・熊本県北部。熊曽国は、熊本県の球磨郡・人吉市周辺から鹿児島県の贈於市や霧島市周辺である。人吉球磨地方のわれわれはクマソの子孫であり、末裔(まつえい)である。

 ウィキペディアによると、「クマソは九州南部に本拠地とし、時の王朝に抵抗し従わなかった」とある。九州南部とはどの地域のことなのか、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある狗奴国(くなこく)はクマソ国なのか、時の王朝とはいつの時代の王朝・王権であるのか、そのあたりのことから関連資料をあさってみよう。

 はじめに、狗奴国(くなこく)の説明からはじめよう。狗奴国とは、三世紀に書かれた中国の史書、魏志倭人伝の中に出てくる三世紀頃の倭(日本の国名)で、女王卑弥呼の邪馬台国には従属せず、対立しながら独立を保ち続けていた倭人の国名である。魏志倭人伝の原文は次の通りである。

「・ ・ 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 ・ ・ 」

 その読み下し文は、「・・その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず」である。
邪馬台国の場所については、九州説と畿内説に大別されるが、九州説論者は、この狗奴国の位置については肥後国・球磨郡に比定しており、邪馬台国畿内説論者も狗奴国が南九州であることを認める人が多い。また、戦前の邪馬台国論争の主導者の一人であり、東洋史学者で邪馬台国畿内説論者であった内藤湖南も狗奴国をクマソ国に比定している。九州王朝説を唱えられた歴史学者の古田 武彦氏、歴史学者の津田 左右吉氏、それに、日本古代史学者で国立歴史民俗博物館の初代館長をつとめた井上 光貞氏、最近では、考古学者であり、同志社大学の名誉教授である森 浩一先生も、狗奴国は九州のなかで考えれば熊本県、とくに人吉盆地を中心としたところと語っておられる。

 魏志倭人伝に書かれている狗奴国や、古事記にある伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神によって生まれた熊曽国が人吉球磨地方以南の九州南部であったとするならば、いつごろ存在した国なのだろうか。このヒントは日本書紀にある景行天皇の九州征伐神話やヤマトタケル神話、つまり、ヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐記事である。景行天皇が熊襲征伐に出かけたのは262年~269年(景行12年~19年)とされている。二度目の熊襲征伐は、景行天皇の子であるヤマトタケルによって行われ、277年(景行27年)である。つまり、今から1570年位まえの西暦260年~270年頃にはクマソ国が存在していたことになる。この時期は3世紀であり、魏志倭人伝の中にあるように、狗奴国が女王国の邪馬台国に属さない国として記載されている内容からも妥当な時期と考えられる。

 問題は、景行天皇の実在性や熊襲征伐の時期である。景行天皇は、古事記や日本書紀に記されるように、神武天皇を初代とした場合の第12代天皇であるが、初代そのものが神話年代であるから、在位が3世紀半ばであるのかどうか疑わしい。実在を仮定すれば4世紀前半ではないかと言われている。クマソは時の王権に従属しなかった逆賊とされているが、いつの時代の王権(王朝)なのだろうか。どこにあった王朝・王権に従わなかったのであろうか。わが国で法律に基づき、中央を中心とした政治や行政を行うようになった律令国家ができたのは7世紀であり、地方行政区の役所である国府、たとえば、九州では大宰府は7世紀後半である。3世紀や4世紀には大和王朝はなかった。仮に、現在は奈良県の大和地方に豪族集団があったとしても、九州地域までの覇権は及んでいなかったはずである。

 魏志倭人伝には、狗奴国は邪馬台国に従属せず対立していたことが書かれているが、狗奴国が邪馬台国と近隣だからこそ利権が絡み対立していたのである。畿内に邪馬台国があっても遠隔地の九州の狗奴国は目障りではなかったはずである。したがって、狗奴国、または熊襲国が従わず対立していた王朝は、古田 武彦氏が唱える九州王朝であったと筆者は考える。この九州王朝説というのは、大宰府を首都とする七世紀末までの日本を代表する王朝のことである。7世紀末までとは言い過ぎの感を禁じ得ないが、大和朝廷以前に九州に大きな権力集団があったことは史跡や伝承から確かであろう。たとえば、神武天皇を祭神とする神社は熊本県には70社、広島県には37社、岡山県には32社、福岡県には16社、宮崎県には15社、鹿児島県は15社であり、畿内を圧倒している。

2.球磨が「熊襲国」である傍証

 前回、「ふるさとの 球磨は狗奴国 熊襲国」と書いた。その傍証をあげる。図1は、クマソや隼人に関する伝承やその地の行事や芸能及び墓式の分布を一括表示したものである。狗奴国は3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に書かれていて、邪馬台国と常に対峙(たいじ)していた国、邪馬台国の南にあると書いてある。邪馬台国が九州北部であれば、その南は、人吉球磨地方を含めた鹿児島県や宮崎西部一帯の九州南部である。

クマソ国
図1.クマソ国 傍証の書きこみ図

 クマソ国は、古事記には「熊曾」とあり、日本書紀には「熊襲」とあり、筑前、豊後、肥前、肥後国風土記など8世紀に編纂された「風土記」では「球磨囎唹」とある。5~6世紀の大和政権でも九州南部は「熊襲国」として区分されていた。しかし、歴史書や歴史小説や研究論文などで、多くの歴史家や考古学者がこれらの記述を検証し類推思考して議論がされてきたが未だ確証された国にはなっていない。ただ、狗奴国やクマソ国の傍証(ぼうしょう:間接的な証拠)に類するものは九州南部には沢山ある。熊襲踊りやバラ太鼓踊り、弥五郎伝説、隼人塚や熊襲穴、地下式板石積石室墓や免田式土器、これらはクマソやその末裔の隼人族に関連する傍証として伝えられているものである。

弥五郎銅像 弥五郎 熊襲踊り 隼人塚
① 曽於市の弥五郎銅像 ② 都城市の弥五郎 ③ 都城市の熊襲踊り ④ 霧島市隼人町の隼人塚

 さて、クマソの墓ではないかとされる長崎県五島列島の地下式板石積石室墓は、この図1から外れているが、小値賀島、新上五島および福江島に、あわせて3基が確認されている。この分布から明らかなように、地下式板石積石室墓の大陸から五島列島に伝わり、天草から八代海を渡り、水俣や出水などの北薩を経て人吉球磨地方へと伝播した。これは弥生時代の人の移住ルートでもあることを、先の拙著、「縄文人は肥薩線に乗って」でも述べた。地下式横穴墓は、どちらかと言えば、大隅半島の肝付地区から宮崎県西部に集中しており、地下式板石積石室墓の族とは別かも知れない。しかし、両民族間の交流があり、やがて一体化していったことは、両墓式の折衷墓がえびの市周辺部に存在していることから明らかである。

石室墓   免田式
図3.左:地下式板石積石室   右:免田式土器 写真:あさぎり町HP

 熊襲踊りやバラ太鼓踊りの由来はクマソ征伐伝説に関連し、隼人もクマソの末裔であると考えれば、弥五郎伝説や隼人塚もクマソに関わりのある現象であり記念塚である。この弥五郎伝説というのは、鹿児島県曽於市、宮崎県の都城市や日南市で語り継がれ、祭礼行事が行われている。
伝説の概要はこうである。昔々、九州の南の方に「弥五郎どん」という大きな体の人がいて、山に腰かけ海で顔を洗い、弥五郎どんが歩くと足跡は谷や池になったという。でも、弥五郎どんは大変やさしい人で、大雨で堤防が崩れると山から岩を持ってきて直してくれ、水が無いときは川をせき止めてダムを作ってくれた。またある時は、山のてっぺんに登って雷様を懲らしめてくれたりして、村人たちを助けながら仲良く暮らしたとのことである。

 もう一つは、クマソの土器ではないかと言われる免田式土器とその分布である。免田式土器とは、図3右のようなソロバン玉のような胴体で、あさぎり町免田の乙益重隆先生が名付けられた弥生時代の土器である。これまで発掘された免田式土器は、熊本県を中心とする南九州に分布し、150所で発見されている。熊本県では95所、特に人吉球磨地方では30ヶ所ほどある。鹿児島県の北薩摩地方や人吉の荒毛遺跡及びあさぎり町免田西の本目遺跡の地下式板石積石室墓から免田式土器が出土している。

3.「熊襲の穴」受難

 築100年の木造駅舎で知られる肥薩線嘉例川(かれいがわ)駅(霧島市隼人町)の近くに、図4に示すような「熊襲の穴」という洞穴がある。現在、観覧できる第一洞穴は、奥行22m、幅10m、天井までの高さが6mあり、広さは100畳敷ほどだそうである。第2洞穴の方は、崩壊箇所があり今は入れないが、300畳敷ほどの広さがあるらしい。入り口近くには案内板があり、それには、「・・昔、熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領、川上梟師(タケル)が女装した日本武尊に誅殺されたところで、一名(別名のこと)、嬢着(じょうちゃく)の穴とも言われる・・・」。

 「嬢着」とはどんな意味なのか、調べてみても答えになるようなものは出てこない。霧島市の文化振興課に尋ねてみても分からないとのことであった。辞書にも出てこないような漢字の使い方も問題であるが、「・・熊襲族が居住していた穴・・」という説明はもっと不適切である。旧石器時代ならばそうかもしれないが、熊襲は洞穴住まいだったのだろうか?この説明では、熊襲族が熊を襲うような狩をしながら、このような洞穴で寝起きしていた未開の蛮族、そんなイメージを想起させる。クマソ国は狗奴国の時代、今から約2000年前の弥生時代の国である。そのころの弥生人がどのような建物で、どのような生活をしていたのか、どのような文化を有していたのか、これらは吉野ヶ里遺跡や綾羅木遺跡の復元遺構をみれば明らかである。

熊襲の穴 壁画
図4.「熊襲の穴」入り口 図5.洞穴内の壁画

 もうひとつ、この洞穴管理方針には仰天する。それは、熊襲の穴の奥に描かれている図5に示すような前衛描画である。もともと洞穴にあった絵模様を復元したというのであれば、それなりの意義はあるかもしれない。そうではなく、前衛画家、萩原さんの宇宙観で、熊襲の穴をパワースポットにしたいとの願望から、町の担当者を説得し描かせてもらったとのことである。これは史跡破壊にも等しい行為といえる。

 熊本県には装飾古墳が多く、全国の約30%が熊本県で発見されている。なかでも山鹿のチブサン古墳やオブサン古墳、鍋田横穴群などが有名で、これらの石室や石棺には色彩豊かな装飾がほどこされている。この熊襲の洞穴の装飾?は、これらの古墳を念頭にして描かれたものだろうか。九州における装飾古墳の分布は、宮崎-人吉球磨-八代を結ぶ線より北の地域であり、時代は古墳時代のものである。2000年前の弥生時代の薩摩や日向西地方には装飾古墳は存在しない。「熊襲の穴」がクマソの居住していた所であるならば、その時代の伝承文化は考えにくい。しかし、弥生時代にも素晴らしい文化があり、技術も伝承されていた。

 弥生時代(前4〜3世紀)の佐賀県菜畑遺跡(なばたけいせき)から出土した彩文土器(さいもんどき)は黒い焼肌に鋸刃状の文様が彫られ、赤色顔料が塗布されている。人吉球磨地方の弥生時代遺跡、たとえば、免田西の本目遺跡からは図6に示すようなクマソの土器と言われる免田式土器が、同じく免田東の市房隠遺跡からは図7に示すような弥生式土器が出土していて、繊細であふれる気品は、この時代の人が高いセンスの持ち主であったことを示し、洞穴に棲み、粗野で武骨な民にはとうてい持てない造形感覚と言える。

免田式 弥生式 帯鏡
図6.免田式土器(本目) 図7.弥生式土器(市房隠) 図8.リュウ金獣帯鏡(才園)

 弥生時代(2〜3世紀)の大分県日田市のダンワラ古墳からは金銀鏡(きんぎんきょう)が出土している。この鏡は、金や銀、ガラス玉などを象嵌して文字や龍などを表した大変珍しい鉄製の鏡である。ダンワラ古墳から出土した鏡は金銀を象嵌した鏡であるが、あさぎり町の才園古墳の2号墳から出土した鏡は鍍金鏡、つまり金メッキした鏡で、図8に示すような「リュウ金獣帯鏡」である。才園古墳は古墳時代のものであるが、「リュウ金獣帯鏡」は中国3世紀半ばの呉の国で作られたものとされる。
次回あたり、河童渡来伝説を紹介するが、その中で、今から約1800年前の弥生時代に「呉人呉人的来多」:呉人が八代の港に沢山やってきたという話を紹介する。あさぎり町免田の才園古墳から出土した金ぴかの「リュウ金獣帯鏡」は、この人たちが持ち込み、古墳時代まで伝承した鏡(伝世鏡という)かも知れない。大分県の日田市あたりと同様、弥生時代の人吉球磨地方も、大陸の優れた文化の摂取し、異国との交流があったことを示す何よりの証拠である。

 「熊襲踊り」の謂れといい、「熊襲の穴」の説明といい、クマソ蔑視や勝者が保身のために伝えた謂れや伝承とはわれわれも決別すべきであろう。クマソは、「熊襲」、「球磨曽於」などと書かれている。しかし、クマソは球磨人の祖先であるから「球磨祖」と書くべきであると思う。


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